メジャーデビュー、東京ドーム3days
メジャーデビュー、東京ドーム3days
1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。オリコン初登場6位を記録する。また、この年だけで60万枚のセールスを記録する。当時はまだ、音楽業界でミリオンヒットが珍しい時代であり、さらにトップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだったこの時代、Xのセールス記録は正に驚異的な記録であった。
その後、同年9月に『紅』をシングルカット。テレビ朝日「ミュージックステーション」などをはじめとする音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びる。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めた。
破竹の勢いでメジャーシーンを突き進むXであったが、YOSHIKIの過激すぎるドラムプレイがアクシデントを引き起こした。同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のツアーは全て中止されたのである。この時から、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。しかしYOSHIKIが不在でも、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を総ナメにして、X現象は全国へと広まって行った。
1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開。5月の大阪城ホールライブをもって、次のアルバムのレコーディングの為に渡米、表舞台から姿を消した。しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のフィルムコンサートを行い成功させるなど、Xの存在は一種の社会現象となった。
アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングでは、またYOSHIKIが倒れてしまう。Xの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たす。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えていた。さらに紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。
しかしこの時、既にYOSHIKIとTAIJIの間には溝ができていた。
1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして初めてとなる、東京ドーム3DAYS公演を敢行し12万人を動員。だが、このライブにおいて、ファンは「TAIJIに何かがある」事を感じざるを得なくなる。そして、1月末の「ミュージックステーション」番組内において、ビデオメッセージによりTAIJIの脱退が発表される。 TAIJI脱退の理由について、脱退当初は「音楽性とファッション性の違いから」と説明していた。その後、TAIJIの著書では「ギャラのアップを要求したことによる軋轢から解雇」という内容を告白している。軋轢対象や解雇を決定したのはYOSHIKIのようだが、TAIJI本人も認めたくない事実のようだ。
その後、Xに更なる試練が襲いかかる。